桃川農園がある新潟県村上市桃川(ももがわ)には「桃川神社」や「桃川のおたきさま」などいくつもの名所があります。それらの名所にまつわる、ロマンあふれる新潟県村上市桃川(ももがわ)の歴史をご紹介します。
平成20年(2008)に5市町村が合併して新村上市が誕生しました。私たちの集落は、新潟県 村上市(むらかみし)桃川(ももがわ)となりました。合併前は 新潟県 岩船郡神林村(いわふねぐんかみはやしむら)桃川 であり、昭和30年(1955)までは 新潟県岩船郡 神納村(かんのうむら)桃川 でした。また江戸時代には 越後国(えちごのくに)岩船郡(いわふねごおり)桃川村(ももがわむら)と表記されてきました。
桃川村の成り立ちは古いと考えられています。
平安時代の延長(えんちょう)5年(927)に醍醐天皇(だいごてんのう)の命で編纂されていた『延喜式(えんぎしき)』という書き物が京都で完成し、その延喜式「神名帳(しんみょうちょう)」の中に越後国岩船郡に「桃川神社」があると記されています。今から1100年も前の大昔のことです。この神名帳に記載された神社は「延喜式内社(えんぎしきないしゃ)」または「式内社(しきないしゃ)」という格式で呼ばれます。
桃川神社があったということは、神社を維持管理したり、継続して祭祀を営んだりする人々がいたということになります。ですから、その頃すでに桃川村が成立していたと考えるのが自然です。
ちなみに、この延喜式内社桃川神社は、現在も桃川の産土神(うぶすなかみ)、鎮守(ちんじゅ)として集落に鎮座(ちんざ)しております。
江戸時代初期、村上城主が堀(ほり)氏10万石の時代には、旧神林村や村上町を含む旧朝日村の南部までの広い地域が「桃川組」とされたことが文書に記されています。江戸時代中期に幕府は桃川村を村上城主から取り上げ幕府領(天領)としました。桃川村が江戸幕府や村上城主からも特別視されていたように思われます。
単に古い歴史を持つ村だったからでしょうか、それとも何か特別な理由があったのかもしれません。
このように古く数奇な歴史を持つ桃川には、先人たちの遺跡や文書が数多く残っており、郷土の歴史研究者・愛好者にとって格好の調査研究のフィールドになっています。特に古代や中世の遺跡の多くは詳しい由緒が明らかになっていないため、どうしても歴史のロマンを感じてしまいます。
桃川は新潟県の北端にある静かな静かな里山の集落ですが、興味ある方はぜひ桃川に足を運んでみてください。
それでは、桃川に残る古代中世の遺跡をいくつか紹介いたします。
現在の桃川神社
明治5年桃川神社絵図
(佐藤栄之進氏蔵)
千里啓の御神号軸
(桃川神社 蔵)
今から1100年もの大昔、平安時代の延長(えんちょう)5年(927)に調停で編纂された『延喜式神名帳(えんぎしきしんみょうちょう)』に、越後国岩船郡の「桃川神社」が記載されています。この越後国岩船郡の桃川神社は、現在の桃川の桃川神社に比定されることは研究者の間でも定まっています。
今から1100年も前の平安時代に、桃川神社の名はすでに京都の朝廷でも知られていました。
桃川神社が創建された場所やその規模は分かっていません。また、江戸時代の文書に頻繁に出てくる「桃川八幡宮」との関連も不明です。
現在の社殿は、江戸時代に代々桃川神主を務めた家に伝わる『佐藤家文書』によると、江戸時代後期の天保年間(1830~)に現在の場所に建てられたと記されています。明治5年(1872)に描かれた「桃川神社絵図」が現存していますがそれが天保年間に建てられた桃川神社の姿であり、そのまま現在に至っています。
桃川神社にはまた貴重な品々が御神宝として伝わっています。
御神刀として「備前長船則光(びぜんおさふねのりみつ)」と銘が刻まれた室町時代の太刀があります。また、江戸時代後期に桃川村が奥州白河藩領(おうしゅうしらかわはんりょう)となった関係で入手できたものか、白河藩主松平定信(まつだいらさだのぶ)に抜擢されて白河藩の藩校「立教館(りっきょうかん)」教授となった千里啓(せんのりけい)が揮毫(きごう)した桃川神社御神号(ごしんごう)の掛軸(かけじく)が御神宝(ごしんぽう)として伝わっています。
崖に洞穴が穿たれている(2段目の滝)
明治5年多伎神社絵図(佐藤栄之進氏 蔵)
桃川の南東に広がる山塊(さんかい)の幾筋もの沢水を集めて根古屋沢(ねごやざわ)を流れた川が、ここで2段の滝となっています。
国道から見える滝は2段目の滝で落差が約5mあります。1段目の滝はこの約40m上流にあり、これよりわずかに小さく約3m位の高さでしょうか。この1段目の滝は2段目の滝や国道からは見えません。
古代の桃川の人々はこの滝に神威(しんい)を感じて多伎(たき)神社を祀(まつ)ったと考えられます。以来村人から「おたきさま」と呼ばれ崇敬(すうけい)の場となって現在に至っております。この場所は神域とされ、草を採ることや木を切ることは固く禁じられ、最近まで原生の森のままでした。
中世の時代には山岳信仰(さんがくしんこう)の修験(しゅげん)の場となったと考えられ、崖(がけ)の岩窟(がんくつ)はその遺跡と推測されています。
多伎神社は明治40年(1907)に式内桃川神社に合祀されました。それまで建っていた社殿は現在跡形(あとかた)もありませんが、「明治5年絵図」に描かれている赤い鳥居に掲げられていた多岐神社の神社額が、桃川神社に保存されています。
平成20年代になって、村の有志が神職にお祓いをしていただいて周辺の整備を始め、現在のようにきれいになりました。
平成30年には「新潟県の名水」に選定されました。
桃川根古屋城跡の全貌 中央の高所部が主郭 雪消えの様子から段々(曲輪)がわかる (標高260m)
尾張(おわり)の織田信長、甲斐(かい)の武田信玄、越後(えちご)の上杉謙信ら全国に戦国大名(せんごくだいみょう)が割拠(かっきょ)していた時代、この地域では旧山北町に府屋の大川(おおかわ)氏、旧朝日村に大場沢の鮎川(あゆかわ)氏、村上の本庄(ほんじょう)氏、旧神林村に平林の色部(いろべ)氏と、国衆と呼ばれた4氏が互いに勢力を競っていました。
中世の時代に「小泉(こいずみ)の庄(しょう)(村上市)」と「奥山(おくやま)の庄(関川村)」との庄境(しょうざかい)、桃川峠を抑える位置に築かれた桃川根古屋城は、遺構(いこう)の状態などから戦国時代に桃川村の豪族(村殿(むらどの))であった桃川氏が維持(いじ)していたと考えられていますが、築城された年代は分かっていません。
桃川氏は平林の色部氏の「御家風衆(ごかふうしゅう)」と呼ばれた重臣の一人で、色部氏の公事(くじ)にも加わり、軍事面では、戦(いくさ)になると桃川衆の部隊長となり高級将校の役割を果たしました。
城は戦国時代の越後の山城に特徴的な堀切(ほりきり)、土塁(どるい)、切岸(きりぎし)、曲輪(くるわ)などで構築され、近世城郭のような石垣は使用されていません。現在もこれらの遺構が複雑に配置されて見事に残っています。
慶長3年(1598)、色部氏が上杉景勝(うえすぎかげかつ)に従って出羽国(でわのくに)に移ると桃川氏も色部氏に従って桃川を去り、城は廃城(はいじょう)になりました。桃川氏は江戸時代を通じて米沢藩上杉家の家老を務めた色部氏の下で代々過ごしました。桃川氏の子孫は現在米沢市にお住まいです。桃川氏の墓は米沢市窪田町(くぼたまち)の色部氏菩提寺(ぼだいじ)である千眼寺(せんげんじ)にあります。
桃川では、毎年4月に地元の歴史グループが広く市民から参加者を募って桃川根古屋城登山会を実施しています。この登山会は、令和2年で10回目(10年目)となりました。
古館の航空写真(昭和50年林野庁撮影)
古館(東から見る) 右に接して国道290号が通る
桃川の集落を東西に貫く国道290号線を西から東へ走る途中、右手に国道に接して周りより一段と高くなっている畑地があります。その一帯が字(あざ)「古館(ふるだて)」と呼ばれていますが、地元の人は「ふだで」と発音します。その字古館の一角に回りの田地より一段と高い畑地があります。周りを百川が蛇行して流れるこの畑地が、中世の時代に平林の色部氏の被官で、桃川村の村殿(むらどの)(領主)、桃川根古屋城の城主であった桃川氏の館跡と考えられています。
慶長14年(1609)開山と伝わりますが、それより昔の色部氏文書にも登場しています。本堂の側にある室町時代の六面地蔵は、村上市文化財に指定されています。
天正2年(1574)開山と伝わります。平林の色部氏の菩提寺「千眼寺」は、当初は桃川にあったと言われています。